明治44年1月24日、大逆罪の故をもって絞首刑となった作者の死後、監房内に残されていた絶筆。終戦直後、司法省の焼却書類のなかから偶然発見されたものだという。
五章の構成で書き始めたが、一章のみで中断されている。「死刑そのものは、なんでもない」などと、秋水の生死観、死刑論が展開されている。
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■一部抜粋
一
わたくしは、死刑に処せらるべく、いま東京監獄の一室に拘禁されている。
ああ、死刑! 世にある人びとにとっては、これほどいまわしく、おそろしい言葉はあるまい。
いくら新聞では見、ものの本では読んでいても、まさかに自分が、このいまわしい言葉と、眼前直接の交渉を生じようと予想した者は、一個もあるまい。
しかも、わたくしは、ほんとうにこの死刑に処せられんとしているのである。
平生わたくしを愛してくれた人びと、わたくしに親しくしてくれた人びとは、かくあるべしと聞いたときに、どんなにその真疑をうたがい、まどったであろう。
そして、その真実なるをたしかめえたときに、どんなに情けなく、あさましく、かなしく、恥ずかしくも感じたことであろう。
なかでも、わたくしの老いたる母は、どんなに絶望の刃に胸をつらぬかれたであろう。
されど、今のわたくし自身にとっては、死刑はなんでもないのである。
わたくしが、いかにしてかかる重罪をおかしたのであるか。
その公判すら傍聴を禁止された今日にあっては、もとより、十分にこれをいうの自由はもたぬ。
百年ののち、たれかあるいはわたくしに代わっていうかも知れぬ。
いずれにしても、死刑そのものはなんでもない。
これは、放言でもなく、壮語でもなく、かざりのない真情である。
ほんとうによくわたくしを解し、わたくしを知っていた人ならば、またこの真情を察してくれるにちがいない。
堺利彦は、「非常のこととは感じないで、なんだか自然の成り行きのように思われる」といってきた。
小泉三申は、「幸徳もあれでよいのだと話している」といってきた。
どんなに絶望しているだろうと思った老いた母さえ、すぐに「かかる成り行きについては、かねて覚悟がないでもないからおどろかない。
わたくしのことは心配するな」といってきた。
死刑! わたくしには、まことに自然の成り行きである。
これでよいのである。
かねての覚悟あるべきはずである。
わたくしにとっては、世にある人びとの思うがごとく、いまわしいものでも、おそろしいものでも、なんでもない。
わたくしが死刑を期待して監獄にいるのは、瀕死の病人が、施療院にいるのと同じである。
病苦がはなはだしくないだけ、さらに楽かも知れぬ。
これはわたくしの性の獰猛なのによるか。
痴愚なるによるか。
自分にはわからぬが、しかし、今のわたくしは、人間の死生、ことに死刑については、ほぼ左のような考えをもっている。
二
万物はみなながれさる、とへラクレイトスもいった。
諸行は無常、宇宙は変化の連続である。
その実体には、もとより、終始もなく、生滅もないはずである。
されど、実体の両面たる物質と勢力とが構成し、仮現する千差万別・無量無限の形体にいたっては、常住なものはけっしてない。
彼らすでに始めがある。
かならず終りがなければならぬ。
形成されたものは、かならず破壊されねばならぬ。
成長する者は、かならず衰亡せねばならぬ。
厳密にいえば、万物すべてうまれいでたる刹那より、すでに死につつあるのである。
これは、太陽の運命である。
地球およびすべての遊星の運命である。
まして地球に生息する一切の有機体をや。
細は細菌より、大は大象にいたるまでの運命である。
これは、天文・地質・生物の諸科学が、われらにおしえるところである。
われら人間が、ひとりこの拘束をまぬがれることができようか。
いな、人間の死は、科学の理論を待つまでもなく、実に平凡なる事実、時々刻々の眼前の事実、なんびともあらそうべからざる事実ではないか。
死のきたるのは、一個の例外もゆるさない。
死に面しては、貴賎・貧富も、善悪・邪正も、知恵・賢不肖も、平等一如である。
なにものの知恵も、のがれえぬ。
なにものの威力も、抗することはできぬ。
もしどうにかしてそれをのがれよう、それに抗しようと、くわだてる者があれば、それは、ひっきょう痴愚のいたりにすぎぬ。
ただこれは、東海に不死の薬をもとめ、バベルに昇天の塔をきずかんとしたのと、同じ笑柄である。
なるほど、天下多数の人は、死を恐怖しているようである。
しかし、彼らとても、死のまぬがれぬのを知らぬのではない。
死をさけられるだろうとも思っていない。
おそらくは、彼らのなかに一人でも、永遠の命はおろか、大隈伯のように、百二十五歳まで生きられるだろうと期待し、生きたいと希望している者すらあるまい。
いな、百歳・九十歳・八十歳の寿命すらも、まずはむつかしいとあきらめているのが多かろうと思う。
はたしてそうならば、彼らは単純に死を恐怖して、どこまでもこれをさけようともだえる者ではない。
彼らは、明白に意識せるといなとは別として、彼らの恐怖の原因は、別にあると思う。
すなわち、死ということにともなう諸種の事情である。
その二、三をあげれば、(第一)天寿をまっとうして死ぬのでなく、すなわち、自然に老衰して死ぬのでなくして、病疾その他の原因から夭折し、当然うけるであろう、味わうであろう生を、うけえず、味わいえないのをおそれるのである。
(第二)来世の迷信から、その妻子・眷属にわかれて、ひとり死出の山、三途の川をさすらい行く心ぼそさをおそれるのもある。
(第三)現世の歓楽・功名・権勢、さては財産をうちすてねばならぬのこり惜しさの妄執にあるのもある。
(第四)その計画し、もしくは着手した事業を完成せず、中道にして廃するのを遺憾とするのもある。
(第五)子孫の計がいまだならず、美田をいまだ買いえないで、その行く末を憂慮する愛着に出るのもあろう。
(第六)あるいは単に臨終の苦痛を想像して、戦慄するのもあるかも知れぬ。
いちいちにかぞえきたれば、その種類はかぎりもないが、要するに、死そのものを恐怖すべきではなくて、多くは、その個々が有している迷信・貪欲・痴愚・妄執・愛着の念をはらいがたい境遇・性質等に原因するのである。
故に見よ。
彼らの境遇や性質が、もしひとたび改変せられて、これらの事情から解脱するか、あるいはこれらの事情を圧倒するにいたるべき他の有力なる事情が出来するときには、死はなんでもなくなるのである。
ただに死を恐怖しないのみでなく、あるいは恋のために、あるいは名のために、あるいは仁義のために、あるいは自由のために、さては現在の苦痛からのがれんがために、死に向かって猛進する者すらあるではないか。
死は、古からいたましいもの、かなしいものとせられている。
されど、これはただその親愛し、尊敬し、もしくは信頼していた人をうしなった生存者にとって、いたましく、かなしいだけである。
三魂・六魂一空に帰し、感覚も記憶もただちに消滅しさるべき死者その人にとっては、なんのいたみもかなしみも、あるべきはずはないのである。
死者は、なんの感ずるところなく、知るところなく、よろこびもなく、かなしみもなく、安眠・休歇にはいってしまうのに、これを悼惜し、慟哭する妻子・眷属その他の生存者の悲哀が、幾万年かくりかえされた結果として、なんびとも、死は漠然とかなしむべし、おそるべしとして、あやしまぬにいたったのである。
古人は、生別は死別より惨なりといった。
死者には、死別のおそれもかなしみもない。
惨なるは、むしろ、生別にあると、わたくしも思う。
なるほど、人間、いな、すべての生物には、自己保存の本能がある。
栄養である。
生活である。
これによれば、人はどこまでも死をさけ、死に抗するのが自然であるかのように見える。
されど、一面にはまた種保存の本能がある。
恋愛である。
生殖である。
これがためには、ただちに自己を破壊しさってくやまない、かえりみないのも、また自然の傾向である。
前者は利己主義となり、後者は博愛心となる。
この二者は、古来氷炭相容れざるもののごとくに考えられていた。
また事実において、しばしば矛盾もし、衝突もした。
しかし、この矛盾・衝突は、ただ四囲の境遇のためによぎなくせられ、もしくは養成せられたので、その本来の性質ではない。
いな、彼らは、完全に一致・合同しうべきもの、させねばならぬものである。
動物の群集にもあれ、人間の社会にもあれ、この二者のつねに矛盾・衝突すべき事情のもとにあるものは滅亡し、一致・合同しえたるものは繁栄していくのである。
そして、この一致・合同は、つねに自己保存が種保存の基礎であり、準備であることによっておこなわれる。
豊富なる生殖は、つねに健全なる生活から出るのである。
かくて新陳代謝する。
種保存の本能が、大いに活動しているときは、自己保存の本能は、すでにほとんどその職分をとげているはずである。
果実をむすばんがためには、花はよろこんで散るのである。
その児の生育のためには、母はたのしんでその心血をしぼるのである。
年少の者が、かくして自己のために死に抗するのも自然である。
長じて、種のために生をかろんずるにいたるのも、自然である。
これは、矛盾ではなくして、正当の順序である。
人間の本能は、かならずしも正当・自然の死を恐怖するものではない。
彼らは、みなこの運命を甘受すべき準備をなしている。
故に、人間の死ぬのは、もはや問題ではない。
問題は、実に、いつ、いかにして死ぬかにある。
むしろ、その死にいたるまでに、いかなる生をうけ、かつ送ったかにあらねばならない。
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